母と過ごした最期の時間を無駄にはしない

母を亡くしてからテレビやドラマで誰かを看病したり、看取ったりするシーンがあると、つい自分のことに置きかえて考えてしまいます。

退院後、末期癌だというのに身の回りのことができるからと、なぜ実家に母を一人にさせてしまったのかと、言葉に出すのが怖いほど、悔やむ自分がいるのです。

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母を一人にしてしまった後悔

30年程前に離婚した母は、私が結婚し、弟が家を出てからの7年間、ずっと一人で暮らしてきました。

『誰かと暮らすなんてもうまっぴら』という人でしたので、癌が分かった時も、「私のうちで一緒に暮らそう」そう言っても、首を縦に振ることは絶対にありませんでした。

母が治療に入ってから1年2か月の間、入退院を繰り返す中で、最後に家に帰れた時は相当具合が悪かったと思うのですが、『家がいい、この家にいたい』そう言って自宅に一人で住み、私たちが行った時は元気に振る舞って楽しそうに笑ってくれました。

それから毎日仕事帰りには顔を見るように通っていたのですが、2週間後、母は日中あまりの痛みで動けなくなり、たまたま実家を訪ねてくれた叔母が病院に運んでくれ、そのまま入院となったのです。

素直になれなくて

入院中、あんなに家に帰りたかがっていた母は、あの日一人で痛みに襲われたことがトラウマとなり、最期は家に帰ることを恐れ、「病院にいたい」とよく言っていました。

一人が楽だと言っていた母は、本心はどれだけ心細かったことでしょう。

それでも私の家には来たくないという母に
『介護ヘルパーの申請をしよう』
そう提案し、母も退院に前向きになった矢先、急変してしまったのです。

本当は「うちにおいで」と言いたかったのですが、嫌がるのは分かっていたので言いませんでした。

でも今は、嫌がられても拒否されても、私の想いは伝えればよかったと思うのです。
そんなことさえできなくて、母の気持ちを尊重するばかりで、自分の想いは封印してしまった。
もう時間がないのに、私は素直になれなかった。

そして母亡き後、誰かが私を労ってくれたとしても『なんと情けない娘だったのか』そう思ってしまう自分がいました。

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母と最期に過ごした時間

入院から1か月、介護ヘルパーを申請し、退院を数日後に控えた矢先、母は急変しました。

母は本当にどんな時も弱音を言わない気持ちの強い人でしたが、『早く楽にさせて、もういいから』あまりの苦痛に、何度も何度もそう言いました。

そして初めて私に「そばにいて欲しい」そうか細い声で言ったのです

必死に見守る中、最悪だった数値も徐々回復していくと、母はどこか生まれ変わったかのように、眩しそうに目を開き、久しぶりに窓越しに外を見つめ、こう言いました。
「みんながこんなに一生懸命私のために頑張ってくれているから、私も頑張らなきゃ」

起き上がれなくなってしまい左手しか動けなくなってしまった母は、動かせる部分だけで一生懸命身の回りのことをし、「自分でやるから自分で…」そう食いしばり、必死で闘っていました。

幸い母は会話はしっかりでき、他愛もない話をしては普段と変わらぬ時間を過ごせたことは救いでした。
そんな母の表情は今まで見たことのないような優しい顔つきになり、日が差し込む病室で過ごした母との時間は、まるで時が止まったかのように長く穏やかな親子の時間でした。

ずっとこのまま続いてほしい…そんな願いも届かず、母は「生きる、生きたい」そう意欲を持った2週間後、最期まで生きることを諦めず闘いながら息を引き取りました。64才でした。

最期にいいところを見せてくれたんだな…

そう叔父が言いました。

そうかもしれない。もしあの時、生きることを諦めたまま逝ってしまっていたら、私は今、自責の日々だったことでしょう。

素直じゃない親子に、母を感じて私が前を向いて生きていくために、神様が残してくれた時間なのかもしれない。

そして母は最期にいいところを見せてくれたんだ。

幸せになる

私はちゃんと看れていただろうか
私は母にとっていい娘だっただろうか

今も尚、自問自答し罪悪感に襲われることはありますが、その時は溢れる涙を我慢せず一人大声で泣くのです。

そして前を向く。

最期に母と過ごした時間、あの優しい母の顔を思い出すだけで少しでも救われる気持ちがあるから。

「親はね、子供が幸せでいてくれるだけで嬉しいものなんだよ」
母が亡くなった時、叔母は私に言いました。

もう母には会えないけれど、私の幸せをどこかで喜んでくれるなら、母の血が流れたこの体で、日々の光をいっぱいあびて、涙がこぼないように、上を向いて歩いていきたい。

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